自分の好きに生きる選択


f:id:lily777flura:20190706103217j:plain会社での日々は
舞台とは全く違う環境で
いろんなエナジーが渦巻いている


以前はそれに巻き込まれないように
自分のことを閉じていた

けれど最近
自分を閉じるのではなくて

違和感を感じようが
耐えられなかろうが
いったん自分で受け止めることに
している

自分の「素」のリアクションを
知るために

今まで自分の反応を
体のよいものにするのに
必死だった

そうしていると
表面を
取り繕うことに

自分の労力の大半を使い
エナジーの残量が少ない

疲れるし
肝心の自分のことができない

自分でやりたい事が
考える事すら
余裕がなくなる


自分のありのままの反応

考えていることを

そのまま表現することで



え~
あなたそんな人だったの

とか

そんなに分かっていない人だったのか

という評価をされることを
いたずらに恐れていたのだと

今さらに思う



「素」の自分でいられたら
表面を取り繕う労力がいらない

自分がどうしたいのか
ちゃんと感じることができる

だから

自分が
好きなこと
やりたいこと
関わっていきたい事が

明確になる


自分が
好きなことをすることで
幸せを感じる


好きに生きるのは

そういう事だと思う

死ぬことへのプロセス

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どう死ぬかを考えることは
どう生きるかを考えることだ


どのように生きるか
どのように在るか
それが
「死」に至るプロセスだ



「スピ」と呼ばれる世界に
浸っていた時期がある

いわゆる
「自分探し」というやつだ


そのときの自分の価値観は
がんじがらめだった

執着はいけない
特に物質への執着は
もってのほか
コントロールはいけない

生い立ちが恵まれていること
経済的に裕福なのは
何だかかっこ悪い



これだけを書いても
かなり滑稽だ


何よりもおかしかったのは

「謙虚でなくてはいけない」
と思っていたこと

「謙虚であること」
がおかしかったのではなくて

私が信じていた
謙虚の定義が
とても歪んでいたのだ

・目立ってはいけない
・NOを言ってはいけない
・自分の希望を自分から言わない
・相手に反対意見を述べない


一部だけでも
今書き出してみると

自分の希望は伝えない上に
都合よく

相手の言いなりになることを
自分で定義づけてたにも

かかわらず

思い通りにならず
周りに不満たらたらで
呆れて笑える


どれだけ自分が
ここにいることを
分かって欲しかったのか
ただの甘ったれの
構ってちゃん満載だ


ようやく
自分の本質が
かつて定義していた
「謙虚」の
正反対であるのだと
分かったように思う


これからは
自分の欲望に従って
まっすぐに
生きていきたいと思う


欲望と呼ばれるもの
煩悩とか野心とか
言い換えることができる



私はそれを
向上心と呼びたい

選択すること

私たちの人生は
選択の結果で出来ている

毎日 一瞬一瞬の
選択が積み重なり
私という人間を
作っていると言っても
過言ではない

最近
選択の中には
「死」も入っている事に
気がついた

死を選択すると言っても
命を絶つという事ではない

私自身の感覚だが
死ぬことを選択することは
生きることを選択することと
同じな気がする

あまりに普遍的で
私たちの日常に
前提条件としてある
「生きている」
「死んでいる」

人によって定義は
様々だ


「毎日の日常」として
ルーティーンな行動

朝起きて
朝食をとる

それだけでも
ちゃんと
選択しているだろうかと
自分を振り返る


自分が
「決めた」ルールを
逸脱せず
習慣的に従う行為は

生きている
人間のものと言えるのかと
ふと思う


自分の身体は
本当はどうしたいのか
その声を
聞けているのかと
思い返す


生きているのなら

選択しないことは

あり得ない


私たちは

人間であって

ロボットではないからだ、

スタジオパフォーマンス

今年の夏至は6月22日
近畿はまだ梅雨入りも
していない

怒涛のように過ぎる6月

先週末は
お世話になっている
レーニングスタジオの
スタジオパフォーマンスに
出演させていただいた

昨年末は
観る側だったのに
変化の速さに
自分でも驚くばかりだ


上手く踊れたかどうかより
あのスペースにいた全員が
立場に関わらず
楽しむことが出来た感覚が
自分の中の実感として
はっきりと掴めたのが
とても嬉しかった

小さなスペースでの
パフォーマンスは
間近で息遣いを感じる
ライブ感が楽しい

一部の隙もない
パフォーマンスの空間と
バックステージの
カオスさが
色んな意味で
渾然一体となって

舞台とか
パフォーマンスとか
表現とか

空間や世界観を共有する
そんな時間が
大好きなのだと
あらためて思った


レーニングスタジオなので
ストイックさ半端ない
レーニングの延長線に
あのパフォーマンスが
あるのだろうなと
ぼんやり思う


ぼんやり

なのは
私の意識も身体も

まだ
曖昧なのだ

背筋だと思い込んでいたら
腰だったり

動かすどころか
場所すら認識出来ていない
肩甲骨の間とか

幼稚園生なら
分かっているようなことが
全然分からぬまま

いい年になってしまったと
つくづく思う

土台から
真っ直ぐ積み上げれば
効率よく
強く積み上がるものを

土台でボタンを
掛け違え

斜めに歪みながら
それでも器用に
バランスをとりながら

まるで
ジェンガのように
ゆらゆらしながら
一見高く積み上げたつもりの
今までの自分

時間をかけた分
妙なプライドみたいなものが
邪魔をして

何も知らない
素直な人が後から始めて
どんどん先に進んで行くのを

焦りとか
嫉妬とか
絶望とか
1人劇場で
どっぷりドラマだったことを振り返って
懐かしく思った


懐かしんで振り返る時間も
勿体ないので
もう要らなくなった

今までたくさん
選択してこなかったこと

本当はどうありたいのか

人生は選択の連続だ

まだまだ
ぼんやりしている事を
1つずつ
目の前ことを

選択していこうと思う




世界を定義すると

前回のブログから
ひと月以上も経っている

超絶忙しかったが
それなりに元気で
意識が鮮明だ

今までと違って
よく寝るようになったから
と自分では思っている

よく寝るようになった
というのは
正確に言うと
仕事から帰って
ああ疲れた…と気を抜いて

気がつくと4時とか
5時とかで
リビングで目覚めるという
ていたらくなことを
していたためだ

ある意味
「寝たい時に寝る」
が叶っていたのかも
しれない


人の意識というものは
私が眠っている間も
起きている

私の肉体が睡眠とは
呼ばれる状態

目を閉じて
背骨を床と平行な状態にし

自発的腹式呼吸
副交感神経優位となる

その時
意識はない

というか

目覚めた時に
記憶にないと認識するから
意識はないと
思っているだけだ


身体を横たえ眠るとは
心臓からポンピングされた血液が
最も効率的に
内臓や四肢の末端まで
運ばれる
「休息」な状態

なぜなら血液は複数の物質を含み
私たちが意図せずも
働き続けている内臓に
栄養物資を運ぶことで
リフレッシュさせる代わりに
老廃物取り除く働きを
するからだ

身体のオーバーホール
自己メンテナンス中ともいえる

意識がない状態は
健在意識が
そのメンテナンス活動を
邪魔しない目的も
あるのかもしれない


しかし
本当の意味で
意識は眠ることはない
ずっと起きていて
活動を続けている

私たちが
記憶に残っていないことは
現実に起きていないと
認識しているにすぎない


世界は
自分が意識出来ている領域と
未知の領域
(あるのかないのかの
仮説すらない領域)
の2つだけで
構成されている


だとしたら
肉体が死を迎え
肉体記憶が残らない状態が
自分にやってきたとしても

世界の構成が
若干変わるだけで
やはり意識は起きているのだと
私は思うf:id:lily777flura:20190615114636j:plain

緊張という「ツール」

あくまでも自分の感覚によるもので
科学的、医学的根拠は全くないので
私自身の記録としてここに書く


最近上半身の力が抜けた
身体を動かすときに
無意識に入る
「緊張スイッチ」


いったんスイッチが入ってしまうと
意図せぬ場所に
力が入ってしまい

 

思いもよらぬ動きをしている
自分がいる

 

それは小さなときからの
「癖」みたいなものでもある
性格からくるものもあるし
大して気にしていなかった
今回身体の緊張が緩むまでは

 


私の身体の緊張は
肩や足の裏、足の指、足首、顎・・

 

ひとつひとつ書き出していたら
きりがないくらいたくさんだった

だから緊張が緩んだとき
いっきに足の裏に自分の重みを感じ
足裏を意識しはじめたこともあり
足の裏が熱くなっている


そして気づいたこと

 

もうひとつ
大切な機能が緊張によって
正常な動きを妨げられていた

 

それは

 


「視覚」


視覚が機能していなかったと言って
目の前が真っ暗になったり
遠くが見えにくくなった
ということではない

 

「見え方」が変わったのだ

 

今まで自分がどうしても嫌だと
思っていた自分の身体の
見え方が変わって

 

本来の「素」の自分の姿が
見えるようになった


鏡を見れば
自分の手足を見れば
「素」の自分の姿なんか
簡単に見えるはず

 

と思うかもしれない

 

だけど私には
見えていなかった

 

自分が見たいようにしか
見えていなかった
というのが本当のところだ

 

もっと足首が柔らかければ
もっと足の指が長くて強ければ

 

もっと・・・

 

もっと!

 


そういう想いが
身体のパーツを緊張させて
本来の自分の身体の状態から
変えて見せていたのでは
と思う

 

緊張というツールを使って

自分が見たい自分を創り出して

その世界に生きていたのだと思う

 

 

というか
としか、思えない

 


緊張が解けて
あらためて見ると

なんとも
小さくて弱っちい
私の手足

 

これを

受け入れるのが
嫌だったんだなあと

しみじみと思う

 


ずっと昔のバレエのクラスで

「あなたは鏡はみてるけど
ちゃんと自分の姿を見ていない」

と言われていたことを思い出す

 

平成の30年

随分遠回りをしたものだ

 

ようやく
自分の「目」をとりもどした
そんな5月5日
令和はじまって初めての子供の日

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私の「土踏みます」

自分の動きを紐解くとき
床との接点である
「足裏」は
とてもとても大切だ

 

その中でも「土踏まず」は

足のアーチを作る

重要な部分


私の足は扁平足で

本来、床に触れないはずの

土踏まずの部分が

床についてしまう

「土踏みます」状態


バレエでは
ルルベと呼ばれる
「つま先立ち」

私が思う理想のルルベは
踵が最高に高い位置にあり
膝がしっかり伸びていて

身体全体が

そっと置かれた
細長い一輪挿しみたいな状態


つま先立つ作業は
筆で1本の線を

描くようなものだと思う

正しく身体を使ったルルベが
できた時は

描いた線は真っ直ぐで
線の太さ、濃さが
偏ったり、とぎれたりする事なく
呼吸がすうっと通るようだと思う


多分

足の裏全体で

偏ることなく身体を

支えているからだ



私のルルベは

線が途中で途切れて

空白の部分の後

突然濃くて太くなることを

発見した


それってまるで

音飛びするCDのように

乱暴で不快だ


足裏全体を使った動きが

出来ていなかったのが原因

正しく立てていないから

いつも不安定


なのに

バランス感覚が悪いせいだと

思っていた


ルルベをしている時
足指が緊張したままだと
指摘されてようやく気づけた


やっとのことで

土踏まずを意識し

足指だけでなく

いろんな場所にかかっていた

無駄な力が抜けるようになった

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よくよく考えると

私の緊張は足指だけではない

もっと大切なところも

固まっていたのだった