身体は動き続ける
身体と心は繋がっている
という言葉を最近よく聞くようになった
私も同感だ
最近はそれを通り越して
身体は意識と繋がっている
そんな風に思うようになった
意識って何?
という話だが
そもそも「心」も「意識」も形がなく
はっきりとした定義づけもされていない
「心」は感情であったり、価値観であったり
自分の知覚する感覚の中で
身体そのものからくる感覚に一番近い
でも身体の感覚とは違うもので
自分の行動を左右するものだ
昔スピリチュアルというジャンルで学んだことがあるが
感情は肉体に所属するものだったと記憶している
何か出来事が起きた時
感情が沸き上がるが
それを出し切らないと
肉体に残って
何かのきっかけでまた噴き出すというもの
トラウマのようなものかもしれない
私は心理学も学んでいないし
ヒーリングなども
出来るわけではない
勉強しようと思った時もあったが
それほど強い興味はなくなってしまった
今自分が
身体の内側から繋がって
昔のように
何かの出来事や人間関係に執着して
重かったり辛かったりすることが
圧倒的に少なくなったからだと思う
無意識や潜在意識の領域には
もちろん心や肉体が所属する
意外にも
肉体も習慣や思い込みで
無意識に動いている
不思議に思うかもしれないが
実際に呼吸は無意識で行われるし
内臓は無意識で働いてくれている
食べ物を食べれば消化器官で消化され
薬を飲めば消化器官を通り、肝臓で解毒され代謝される
消化され、代謝されたものは
体外に排泄される
必要な栄養素を選り分け
不要な毒素は取り除き無害化する
これは基本的に年齢、性別、人種にも関係なく
学歴とか人生経験にも左右されない
(もちろん、民族的に消化できない食べ物や物質はある)
すごいシステムだが
私たちが意識していないところで
身体は粛々とやってくれている
動作も同じで
朝起きてから夜寝るまでの動作は
長年の積み重ね、癖で
反復練習したものが染みついている
考えることなく無意識な行動だ
じゃあ、考えることがないのなら
無意識に身体が毎日の動作をしてくれるなら
考えることは少ないはず
では
頭は
脳は
何を考えている?
仕事?
今日のご飯のメニュー?
誰かとの人間関係?
昨日やらかしてしまった失敗?
そこを思い出すたび
思いをはせるたび
記憶回路が繋がって
その時の感情や思考が
何度も繰り返されて
再体験していることになる
それ、楽しい?
幸せ?
本当に考えたいことはなに?
本当はどうしたい?
何を感じたい?
いっときも静かにならない
安らぎがない
そんな感覚で幸せって感じるのかと思う
youtubeでビジネス系のショート動画を見て
早口でまくし立てるユーチューバーの言葉で
どんどん行動しなくては
という気持ちに追い立てられることで
一見テンションが上がったように感じるが
ただ落ち着かないだけ
無意識に視覚から入る情報も
どんどん無意識に蓄積されていく
それも
無意識だから無自覚に
だから意識して
身体をゆすったり
貧乏ゆすりをするのは
実は自然じゃないかと思う
視界に入って迷惑だと感じるのは
本当は自分もそうしたいから
一般常識とか
マナーとか
そういうものが邪魔をしているだけ
人間は無意識に動いている
息は止められない
血液は体中をめぐり続ける
本当は血液の流れを助けるために
全身運動したほうがいいに違いない
そんなことを思う
落ち着きがない
せからしい
大人の世界で
大人の組織で
管理に不都合なことは
「マナー」として「良識」として
排除されているだけではないのか
それも小さなころから学校教育で刷り込まれる
そんなことを思うGW
絶対正義を権限譲渡する
生まれてから
昨日まで
ずっと私の中で
絶対的に正しく
絶対的に正義で
何よりも大切にして
自分が生きる糧にしていたこと
「美しい」ということ
正しいことの根拠
比較する時の理由
そして
自分のセンスの良さの証明
それはただの
私のプライドであり
エゴだったのだと知る
ここで私が言っている「美しさ」は
視覚的なもの
目に見える美しさ
「人は見た目が9割」
そんなベストセラーがあるほど
視覚からの情報は絶大だ
兵器と軍服についての考察の投稿が
SNSで流れてきた
男の子なら誰しも憧れる
戦車や武器の話
そんなプラモデルを作ったという
懐かしい昔話
第一次世界大戦からの流れで
機能美を追求したデザインは
今もなお人々を魅了する
軍服も同じで
ドラマで身につけた役者さんは
着るだけで心持ちが変わるという
体験をしたそうだ
確かにデザインが素晴らしい「機能美」は
心惹かれるものがある
戦意や団結や意図されるものが
その背後にあっても
私の中にも「美」を通じて
集団の中に引き込まれるものがあり
美に対する魅力と
背後にある意図に葛藤することに
ようやく気付いた
葛藤があるのは
どちらかだけを選択したいのに
どちらかだけを選べなくて
両方は選択できないから
ゼロか100か
決めないといけないから
逆にゼロという選択があるのなら
私の人生になくてもよいのは
いや
ゼロを願うのは「戦争」の存在だと
はっきりと決めた
だからもうひとつゼロになった
目に見える「美」に
絶対の価値を持たせるのは終わり
本当に自分を明け渡すのは
自分の内側からくる感覚
頭についている
2つの目から入る情報は
あまりにも強烈で深く心を揺さぶるけれど
それに惑わされることなく
どれだけ冷静に
そして思いやりをもって
自分の中心と繋がって生きていくかに
シフトしていくことにする
少しずつでも
自分自身の権限譲渡をしようと思う
ゴールデンウイークに突入して
明日から5月
なぜか毎日寒い日が続く
戦争を生む意識
あまり意識してはいないが
現在、戦時下だ
第二次世界大戦が終わって
米ソの冷戦時代を乗り切り
人類は2度と核戦争を引き起こすような
バカはしないだろうと
豪語する有識者は複数いるようだ
核があろうとなかろうと
そもそも
戦争、争いを引き起こすのは
国同士のレベルではなく
複数の人間が関わりあう中で
ひとりひとりの中で
それは起こるものだと思う
いや
複数いなくても
個人の中にその火種はあり
その小さな炎が現実化するのだ
そして戦争は
その個人個人の意識の火種の
集団性を利用して
一部の人間が
商業的な利益を得ているイベントに
他ならないと思う
身体からの
というより
自分の内側からの声を聞くようになり
メッセージ性がある出来事も頻発して
人生の転機を感じたこともあり
勧められて心療内科を
生まれて初めて訪れることになった
週末の休みの日も眠れない日が続き
仕事に行くと息苦しさを感じることが
多くなったのが理由だ
面談をした先生は
一見ゆるゆるにリラックスをして
大らかなキャラクターに思えたが
面談中に
一切動きを止めない繊細な指のブラインドタッチと
絶え間ないキーボードの音で
無意識に警戒して
自分のガードが固く締まるのを感じた
結局、眠れないという現在の私の状況は
健康的でなく
職場を離れるという大きな決断をするのに
適しておらず
休職を強く勧められて終了した
面談の中で2回ほど先生と目が合い
3秒くらいお互い凝視しあうことになった
言葉もなく目線を外さず
先生がゆっくり瞬きするのを見て
本能的に
マウントを取られそうな気がして
目線を外してはいけないと感じた
とっさに
相手の目線に対抗して
自分の強い目線を返した
それは「抗う」ことだったし
「拒否」だった
多分
ここで「負けて」しまうと
主導権を取られてしまうと
自分の意見を強く言わないと
相手の言うことを聞いてしまいそうで
怖かったし
自分の思うような現実が来ないかもしれないと
不安に思ってしまったのだった
帰宅してから
気が付いた
抗ったり 拒否したり
それは相手に「戦い」を送っていたことに
怖いから
不安だから
自分や自分の未来を守りたいから
頑なになって
相手に抵抗するのは
「防御」であって
「攻撃」と背中合わせ
これが戦争を生む意識なんだと思った
自分を守ろうとすること
自分の大切な人を守ろうとすること
それが「戦い」に繋がることは
うっすら気づいていた
戦いに繋がらないようにするためには
自分の願いが叶うことを委ねて
祈るくらいしか
ないのだと思う
何でも自分の思う通りになると思うのは
傲慢以外の何物でもないのではないかと
今の私には思える
週末は雨
あっという間に4月が終わる
脚を高く上げたい病
ずいぶんと
自分の身体の違和感に
気づけるようになってきた
すると
無意識に
本当に無駄に筋肉に
力を入れて
固めて使っている事に
気づけるようになった
肩甲骨がほぐれて
ようやく
今まで動かしたくても動かせない
角度に振り向けるように
なってきた
そうなってきて
背中が柔らかくなり
はっきりと
左右の違いが
分かるようになった
私は脊椎側わん症で
背骨が少し左側に傾いている
そのため背筋も左右差がある
今まではその違いさえ感じられないほど
背中が固まっていたが
ようやく少しずつ動かせるし
背筋を感じることが
できるようなった
今まで固めていた場所は
可動が少ないので
その分の動きを別の場所で補う
「代償動作」で酷使していた
腰の部分の腰痛は
ずいぶんましになったかわりに
内側の筋肉の
ひきつれるような痛みが
出てくるようになった
それと同時に
今まで無意識に力を入れて
腰回りを固めていたことに気がついた
腰回りを固めるために
ウエストの内側の奥にある大腰筋を
固めていたことに気がついたのは
横に脚を上げた時に軸足の腰回りが
とても窮屈な感じが
したからだった
「窮屈」という違和感を
自分の身体の柔軟性がないせいと
理由づけしていたので
ストレッチをすれば解決すると思っていた
ストレッチトレーニングを始める前
大切なエクササイズは
脚を上げる
開脚をする
ハムストリングのストレッチをする
こんなことだと思っていた
自分の内蔵を含めたお腹が硬いとか
内臓のそばにある大腰筋が硬いとか
自分の身体の表面より深いところに
原因があるとは
思いもしなかった
「バレエは脚を高く上げるのがすごいこと」
誰にも教わっていないのに
勝手に思い込んでしまった
自分の中の当たり前
「脚を高く上げたい病」
も一つの病気だったなと
今では思える
しっかりと無意識に定着して
身体の動きの制限になっていた
小さい頃の「憧れ」の素晴らしさと
恐ろしさ
無意識に固めたのは筋肉だけではなく
自分の感受性の豊かさや直観力
そんな気がする
どんどん解けてゆく身体と意識
自分の内側からくる違和感という
メッセージはすごい
濁らせることなく
受け取っていこうと思う
違和感という目覚ましベル
会社のパソコンが
オンライン会議中であろうと
作業中であろうと
無情にも何度も強制終了
システム部に調査を頼むと
ご愁傷様とのこと
代替機がしばらくないため
慌てて共有のパソコンに
必要なものをインストール
(システム部の神サポート、心から感謝)
昨年6月にも部品破損のため
(落下など不注意ではない)
代替機に交換して1年も経っていない
それとは別に
どうやら差し歯が取れそうで
歯科の予約を取ろうにも
週末で平日に連絡が必要
今まで当たり前に機能してくれていた
差し歯にあらためて感謝
あともう少しもって欲しいと願う
今まで当たり前に使えていたものが
不協和音とともに離れていくのを感じる
極め付けは
職場の「当たり前」と
自分の中の「当たり前」が
大きくずれている事に
気づいてしまったこと
「やって当たり前」として
「評価」すること
担当だから
今までずっとそうしてきたから
お給料をもらっているから
「当たり前」
という基本中の基本に
違和感を感じているのに気がついた
寝不足が続いたせいで
ものすごく
判断力が低下して
いわゆるアホになったのかもしれないと
思ってみたけれど
最近トレーニングで自分の中心に
繋がる感覚を掴んでから
身体と意識はとても安定している
自分の中のこの
中心にいてしっくりくる感じが違う
Instagramのバレエの映像の
見え方が変わって
長く美しい手足ではなく
無理なく満たされた感じの
体幹部分の「厚み」を見るようになった
そんな自分の感覚をあらためて確認して
自分にしっくりこない
会社の「当たり前」が
自分に合わないのだとしぶしぶ認めた
眠れない夜が続き
胸が苦しくなる理由が
分かった気がした
多分、私が変わったのではなく
ずっと長い間違和感だったのを
見て見ぬふりをして
フタをしていたのだと思う
「当たり前」の反対は
「あり得ない=ありがたいこと」
と言われる
私もありがたいと思う感覚を
無視していたんだと思った
変化の時が来ている
変化は新しく変わるのではなく
本来の所に戻っていく感じだ
本来の私が
「当たり前」と思っている生き方に
変わって行く時
どうするかはノープラン
自分に聞いて決めるしかない
桜の時も過ぎて
新緑の季節
散歩に出た空の青が美しい
優柔不断癖
私は優柔不断だ
すぐに決断できない性格
常に迷って
悩んで
葛藤もして
決断に時間がかかる
でも実は
答えを出すのにぐずぐずしているくせに
自分の中では答えはすでに出ていることが多い
または
答えが決まっていると思っているのに
そのもっと奥に
本心ではその答えではないと知っていて
本心の答えを選んでしまうと
周りと摩擦が生まれることが分かっているから
摩擦が起こることを先送りにしたいから
結果を出すことに時間をかける事が
多いんだなと
最近気づいた
自分に繋がる感覚がやってきて
いよいよ
本心ではないことを選択するのが
できなくなった
そうすると
どうしても自分の本心と
周りの意向が違うときの摩擦がいっきにやってきて
あたふたしている自分がいる
私は意外にも摩擦に弱い
自分でも驚くことに
眠れない日が続いていて
このままではいけないと思い
ようやく
自分のやり方とか
自分の環境を
見直す必要が出てきているのに気づく
自分の本心から魂から
やりたいと思っていること選択することは
きっと幸せで
自分の中は静寂で平安だと思うからだ
現状維持は安心安全
その言葉が頭に響く
だけど安心や安全は
一体誰のものなのか
今のぼんやりした頭では
良くわからなくなってきている
桜はそろそろ満開
春が過ぎるのはあまりに早い
去っていく季節は美しく見え
まだ見ない時代は見えないから不安に思う
不安ではなく
未知の可能性を選ぶことを
自分に許そうと思う
繋がりを感じる
最近ようやく
トレーニング中に自分の身体の声を
聞けるようになってきた
そうなってはじめて
今までのトレーニングは全て
ダンスやバレエの目的のためにするもので
「これが美しいアラベスクに繋がる」
とか
「つま先を正しく伸ばすために必要」
とか
目的ありきだった
今動かしている部分は
身体の中心から繋がりを感じているか
とか
呼吸ができているか
とかは二の次
本当の自分自身は
置いてきぼりだった
身体の繋がりを感じて
トレーニングするようになってから
今までほとんど感覚がなかった
「背中」つまり「背後」を
意識できるようになった
何となく
自分を取り囲む周辺部分を
均等な感じ方が
できるようになってきているかもしれない
今までは自分の前面は意識できるが
背面はお留守の
平面的な感覚だったと思う
今でも時々
何かの動作をする時に
もう、踊らなくて良かったんだと
荷物を下ろして楽になった感じを
味わう事がある
長らくついた習慣が抜けるのには
時間がかかるのだと思う
自分と繋がる時間は静寂と平安を感じ
至福で本当にありがたいと思う
ただその時間はずっと継続するわけでなく
日常生活が始まり
会社に向かうにつれて
意識と身体はどんどん重くなる
内側のあの静寂と平安な感じを
できればずっと感じていたい
どうやったら継続できるのか
自分に問いかけている