冬至までに変化したこと
冬至の日には
ゆず風呂に日本酒を入れて
温まりながら
12月を振り返ってみた
1週間前に久しぶりに舞台に立った
7月の予定だったそのイベントは
コロナのために
5か月先送りになった
その時間は私にとって
とてもとても
大きかった
4月から始めたオンライントレーニング
9月からすっかりハマって
毎朝の習慣になったストレッチ
それは私にとって
ただ身体を動かすだけでなく
瞑想だった
とても意識がクリアになり
ほんとうにわずかな
自分の身体の声を少し聞けるように
なったと感じる
9月からリハーサルが始まり
3か月と10日ほどで本番
長年知った顔がメンバーだったからかも
知れないが
驚くほど緊張しなかった
いや
普通に緊張していた
本番に初めて現場を使ったこともあり
ゲネではいつもの
正面がどこか分からない
をやらかした
方向音痴のため
トイレから戻る時に
反対方向にしばし進んでいたりした
それはいつものこと
ただ、今回は
本番、足が地についていた
ちゃんと床を押せていた
踊りがどの程度変わったか分からない
だけど確実に意識は変わっている
それは決して目に見えるものではない
でも自分の中では明確な変化
周りに左右されない穏やかな状態
私の中で少し
腑に落ちたこと
身体の感覚が変わると
意識が変わる
結果として数値にはならない
だから説明できないと思ってきたが
きっと私が考える説明ではない形で
説明できる日が来ると思う
ハマっていること
闇という幻想
スピリチュアルでなくとも
「闇」という言葉は
良く使われる
「●●界の闇を暴く!」
みたいな
車内吊り広告は
通勤時に無意識に目にして
その時は憤りだったり
悲しさだったりは
感じない事が多い
闇というと
良くないこと
醜いこと
見たくないこと
が混沌と底の辺りに
なにやら粘液質な感じで
溜まっているように感じる
それはまるで
一見高潔で明るくて
いいことばっかりの裏側には
バランスを取るように
悪いことがあり
やっぱりいい事ばかりじゃ
なかったよね
という結論になり
「完全ではなかった事」
に対する批判が話題になる
あたかも
「完全であることが正しい」
という
無言の共通認識があるように思う
自分の中にも
「闇」はあると
ずっと思ってきた
例えば
友達があっけらかんと話す
家族のこと
とても恥ずかしいと思って
口に出来なかった
「父が病気療養で自宅にいます」
とても言えなかった
言ってしまったら
どんな病気なの?
お母さん働いてるの?
生活どうしてるの?
そんなことを聞かれそうで
わたしの答えの
受け取られようによっては
同情されたり
逆に避けられたり
そらが嫌だったから
白日のもとに晒すのをやめて
蓋をした
これ以外の「闇」も
たくさんある
世間では「悪い」
としていることも含めて
明かしたら
目の前の相手の態度が
一変しそうなもの
すぐには変わらないけど
ずっと後で影響して
あの時言わなければ良かったと
後悔しそうなこと
わたしにとっての「闇」は
周りの誰かとの
関わりのためにあった
それがたとえ
些細なことであろうと
自分で自分のことが
許せないからだった
自分の家庭環境とか
親との関わりとか
自分の容姿とか
自分のポンコツ具合とか
自分の性格とか
多分
誰かのそれと
比較してたんだと思う
最近は
少し感覚が変わり
この自分の
言ってはいけない
見せてはいけない
知られてはいけない
たくさんの事は
言わないし
見せないし
知らせないけど
相手が知りたがったら
教えるだろうな
それを知って
その人が
わたしから離れても
最初は悲しいけど
受け入れられると
思えるようになったから
「闇」は誰にでもあって
決してなくならない
なぜなら
本人が「悪い」と思い込んでる
幻想だから
分岐点
久々に夕日を見た
雲がきれいだった
10月に入って
気候が急に秋らしくなって
空気がガラッと変わった
今年もあと3か月
今年度はあと半年
流れの変化を感じる
今日このごろ
自分が受け入れられない事は
人生ではやって来ない
ただ
もう必要ないのに
執着のために
握り締めているものは
あると思う
目の前のことが
どちらなのか
選択する時が
来ていると思う
変化を選択すること
気候も大きく変わり
季節が変わったことも感じる
マスクをしている以外は
表面的には
一年前とは変わらない
秋の始まりに思える
だけど1年前は
過去世みたいに遠いし
たまに瞬間的な記憶が
蘇ることはあっても
ほとんど思い出せない
実は、過去も未来もなくて
今この瞬間しか
ないのだという
今この瞬間に
次の行動を選択したら
選択した未来へと
つながるのだそうだ
別の選択肢を選択したら
その選択肢に対応した未来
選択肢は無数にあるから
選択肢から無数に枝分かれした未来
いわゆる
パラレルワールのこと
自分の選択が
正しいのか自信がないと
ずっと思ってきた
別の可能性を選ぶ選択を
今いる場所にいるのは
変わらなくて済むのではなく
良い悪いを決めること
この1か月で
「死」という話題を
よく目にするようになった
有名人だけではなく
身近なところで
SNSの繋がりのなかで
私自身も1年前
母の死を経験した
今まで
「死」は口にするのを
はばかられるもの
悪い事だと思っていた
本当にそうだろうか
母が亡くなった
その時はショックだったが
1年たった今感じているのは
母は死んだのて
肉体はこの世からいなくなったが
今は生きていた時より
その存在をより身近に感じている気がする
母の死は
わたしにとって
その存在の形が変わっただけだった
泣くことを
悪いと思っていたように
「死」それ自体に
良い・悪いは
ないのではないかと
思うようになってきた
生きることは良い
死ぬことは悪い
泣くことは悪い
笑うことは良い
怒ることは悪い
喜ぶことは良い
病気は悪い
健康は良い
痛みは悪い
快感は良い
どれも
当たり前のことで
必ず経験することで
どれも
一概に良い悪いと
言えないんじゃないか
そんな風に
思えるようになった
私が出来るのは
それを感じている本人の感覚に
寄り添うだけ
ご機嫌でいる方法
緑の中で過ごしたいと
何となく思っていたら
急に仕事で行くことになった
保健施設の中庭
虫の声と
緑に癒される
身体はまだ夏モード
部屋の気温が25度で
すっかり長袖気分
最近
自分の機嫌は自分でとる
という言葉が身に染みる
ずっと
不快なことがあっても
泣きたくても
他人から見たら
とても穏やかにしているように
ふるまうことだと
思っていた
怒っていても
悲しくても
寂しくても
ひたすら忍耐
その結果
やってくるのは孤独
快適そうにみえる
他人への嫉妬や恨み
ようやく
忍耐ではないと
気が付いた
だけど
結局どうするのか
分からないと思って
結局
頭で分析するのをやめて
自分に聞くことにした
以上、自分の中のうだうだループ終了