死んでお空の星になる
昔
亡くなった人のことを
子供に向かって
「お星さまになったんだよ」
と説明する場面を
ドラマで観たことがある
私はてっきり
子供だましのセリフだと
思っていた
先日
母が亡くなった
容体が急変したので
急いで駆けつけはしたが
最後の呼吸を看取ることは
できなかった
しかし
病院に急ぐタクシーの中で
ふと呼ばれた気がして
空を見上げると
きれいな雲が泳いでいる
空いっぱいに
母の存在が広がっているのを
感じたのだ
ああ
逝ったのだな・・・
そのとき
母が肉体から離れたことを
知った
なぜか別の場所から駆け付けた
弟と同時に病室に入ることになった
母の采配だったのかも知れない
「あなた達のことを、平等に扱っていますよ」
そんな感じがした。
私の独りよがりな
意味づけだけど
なぜなら私は
母がずっと私より
末っ子の弟の事を
可愛がっているように
思ってきたからだ
亡くなって
20分くらいしてから
私たちは到着したのだが
看護師さんから伺うと
母は
静かに、穏やかに
逝ったそうだ
さんざん家族を振り回した挙句
最後のあいさつもすることなく
自分のタイミングで
機嫌よく行ってしまうなんて
母らしいと思った
なぜか今は
感謝しかない気がする
昔はこの言葉が気持ち悪くて
仕方がなかったが
今の気持ちを表現すると
それしか思い当たらない
母は肉体から去ってしまったが
その存在は私の中にある
空いっぱいに広がった母の存在
空は私の意識の反映
そして
母はそこにいる
そう
あの話は本当だった
母は空の星になったのだ
秋分の日 今日までの振り返り
今日は秋分の日
一日の昼と夜の
時間が同じ日
連休だったにもかかわらず
体調不良のため
だらだらと過ごした
そんな中で
この1年少しの自分の身体の
変化について
振り返ってみた
気付きというものは
意識=思考ばかりだと思っていたが
身体の感覚から気づくことも
多いのだと
この1年ほどで認識した
私の場合は
昨年8月からトレーニングスタジオに
不定期にいくようになり
身体(ボディ)からのアプローチとなった
かつては
身体ではなく思考を優先に
していた
が
結局頭でっかちになってしまい
現実と、知識・思考とのギャップが
とても苦しくなってしまった
いろいろ
どん詰まりになり
本当に生きるのに
うんざりで
自分が嫌いになったとき
やっぱり好きなことは
13歳で辞める事になり
就職してから
細々と続けてきた
バレエやダンスだったと
自分を振り返ったのが
トレーニングスタジオに
通うことにつながった
それまでには
色んな人との出会いがあって
プロでダンサーをしていないまでも
本当に「もの」にならなくても
才能やセンスがなくても
これほど
エネルギーを
身体のことに注ぐことを
自分に許すに至ったと思う
今のところ
身体が変わったと
自信をもって言えるのは
自分の足裏全体で
自分の体重を感じることが
できるようになったこと
骨盤からまっすぐに
すとんと足裏まで
何かが流れている感覚が
分かるようになったこと
現在はその状態にはなった
それが自分の
何にどう影響するのかは
これから結果が出て
ゆくのだと思う
笑える思い込み
今まで自分ではトレーニングで
チャクラを意識するなんて
思いもよらなかった
チャクラ、エネルギー、気
そんなものは希薄で
自分で運動して心拍を上げ
汗をかく事と
全く無関係なものだと
勝手に思い込んでいた
「静かに座して感じるもの」
そんなイメージを作り上げていた
穏やかに蓮華座で座り
瞑想しているのカッコいいと
思っていたのだと思う
自分の思い込みが
間違っていたというよりも
ただ自分の体験をするチャンスを
遠ざけていたことが
とても残念で
その間に正しいと思って
足掻いていた日々が
ちょっと笑える
なぜなら
自分で勝手に決め付けて
意識することさえしない
まるで
食べず嫌いで
本当は美味しいと感じる
料理を味わわないで
生きてきたみたいな
感じだからと思うからだ
ちょっと古いが
「巨人の星」のテーマソングの
「♪~ 思いこんだ~ら 」
を思い出した
(画像は整地ローラー)
メンテナンスの続き 〜喉チャクラ〜
Y字バランスのストレッチで
ずいぶん骨盤周りが
スッキリしたように
感じた頃
何となく意識が
ボディ(上半身)に
向いているのを
感じた
土台がしっかりして
より上に
意識が届くように
なったのだろう
トレーニングでは
色々なアプローチが
行われるが
この日は
「喉チャクラを開く」
という言葉が
自分の中に
手ごたえのある
感覚とともに
スコーンと落ちた
「喉チャクラ」とは
第5チャクラとも呼ばれ
喉の辺りにあると
言われている
チャクラは
サンスクリット語で
「車輪」の意味
エナジーがくるくる
車輪のように
回転しているのだそうだ
私がかつて
スピリチュアルに
ほぼ自己逃避として
どっぷりハマっていた時代
得た知識が
役に立っている
自分にとっては
黒歴史
その6年の期間は
常識外れの
ある意味
自分には都合のよい
精神世界という
自分探しの時間で
今にして思えば
ただの
痛いおばさん時代だった
少し前までは
チャクラと聞くと
うっすら苦い感覚を
思い出していた
「喉チャクラを開く」
を意識すると
喉の辺りにどこかから
涼やかに
風が通り過ぎる
感じがした
方向は
自分の前方から
自分の喉を通り過ぎて
いく感じ
なぜか
喉チャクラなのに
みぞおちや胃の辺りが
スッキリした感じになる
喉チャクラを
意識するのを止めると
みぞおちや胃の辺りの
スッキリさ加減が
どこかに行ってしまう
そして
不思議なことに
人の話している言葉も
とても自分の中に
入ってきやすく
なった気がしている
理由は不明
自分の中に流れる
エネルギーのような流れが
本来の状態に
近くなったのかも
知れない
理由を頭で考えたり
調べたりするよりも
自分で感じて
身体がOKという方向に
進んでいきたいと
思っている
ちなみに
喉チャクラの対応カラー
メンテナンス始めてます
7月の終わりから
定期的に
ボディメンテナンスを
する事に決めて
月1回オイルマッサージを
受けている
並行して
8月から温冷浴と
強めのストレッチを始めた
温冷浴で身体を温めたあと
ストレッチ
左右のY字バランス
足は身体の前方から
側面にスライドさせる
私にとってかなりハードで
汗だくになる
始めの2週間は
なぜか内出血と
わけのわからない痛み
その後3週間くらいは
筋肉痛というよりは
打撲痛
尻もちをついて
尾骶骨を強打した後のような
痛み
ストレッチを始めるとき
足先を持つときに
その痛みを超えないと
ストレッチの領域に
辿り着けない
軽い一撃がある
そこは毎回
イニシエーションのように
超える
少しずつ
可動が広がっていった
その後1週間は痛みが
ずいぶん和らいだ
ここまでの段階で
大きく変わったこと
足の裏の「構造」が
確実に機能した
かかとと「肉球」の部分が
はっきりと
地面を押して
立てるようになった
足の裏から
頭頂まですっと
流れが整った感じがする
「流れ」と書いたが
それは
「気」なのか
「エネルギー」なのか
なんと呼べば正確なのか
自分の中で探っているが
流れがあり
風か空気のようで
停滞すると不快で
さらさらと流れると
心地よい
それは身体の中だけではなく
身体の周辺にも
流れている感じがする
多分
自分の意思でコントロールも
出来るだろう
そんな状態を
体感している
不定期に通っている
KAYAメソッドで
「身体が整う」という
表現が使われるが
こんな感じなのかもしれないと
思っている
このメンテナンス&ストレッチの
変化はまだまだ
続いている
自然でいるって、どういうことだろう
本来の流れに沿って生きているイメージがある
流れって何だろう
ふと
「秩序」っと言葉が
ひらめいた
秩序に沿って生きるって
波風は立たない
多くの人がルールだと
しんじている
「常識」の範囲から
出ないで生きるから
それって
楽しい?
わくわくする?
安全な領域のなかでは
味わうことができない
少しだけ
怖かったり
痛かったり
チャレンジが必要なこと
それこそが
求めている楽しさ
な気がする
秩序を守る
正しくある
とは全く違う
少しだけの勇気を
持つだけでいい