蘇る記憶
私は覚えることが苦手だ
学校の勉強は
反復練習して何とか覚えられたが
今の会社に入社してから
特に最近は
恐ろしく記憶に残らなくなったことが
多い
踊りの振り覚えも強烈に悪い
あまりのポンコツぶりに
目を覆いたくなる
人として終わりかなと
思うときさえあるのだ
そんな中で
何年も前の記憶が
蘇ってくることがある
子供の時の記憶ではなく
25歳以降の身体に関する記憶だ
どこが痛かったのか
どんな感じの痛みだったのか
それと
さまざまなボディワークを受け
施術者から言われたこと
セッションのすぐあとには
忘れてしまっているが
何年かしてふと
湧き上がってくるのだ
今回もそうだった
昨年夏から受けている
トレーニングで
なかなか乗り越えるのに
時間がかかっている課題があった
実をいうと
昨年夏からではなく
私の人生でいままで
乗り越えたことはなかったこと
それは
トウシューズで静かにバランスをとること
頭のてっぺんからつま先まで
細い積み木を真っ直ぐに積み上げたように
身体の形をもっていければ自然にできる事だ
頭で分かっていても
ずっとできなかったこと
もちろん
バレエを習っている人がすぐに
習得できるものではなく
私もその一人であるだけなのだが
何とか立つことはできるが
あちこちに無駄な力が入って
安定しない
トレーニングで先生に
「ここなんだけどなー」と触ってもらった後
スタジオにあるガイコツで
説明してもらった時だ
6年くらい前に受けたボディワークで
言われた言葉が
突然よみがえった
「あなたは1本骨が多いから首が安定しにくいかもね」
クラスが終わってから
自分で思い返して意識して身体を使ってみたら
今までと違う意識で使える場所ができた
これが正しいかどうか分からないけど
足の先から頭のてっぺんまですっとエネルギーが
通る感じだし
無駄な力がいらず
とても安定しているから
100%間違いではないと思う
実はその骨の話は
どこの骨のことだったか覚えていないし
本当に1本多いのかどうかも分からない
レントゲン写真で確認したわけでもない
ただ
私にとっては骨の話が正しくでも間違っていても
どうでもよく
大切だったのは
私の身体はほかの人の身体とは少し違っていて
全く同じように見えないということを
自分で受け入れたこと
もっというと
「こんな風な姿で立てたらいいなあ」
を捨てたこと
だったように思う
目で見て確かめたのはガイコツの模型だけで
自分自身は先生から肩を触ってもらい
「ちょっと猫背っぽくなるかもしれないけど」
と言ってもらっただけ
肩の感覚と
「猫背」っていう言葉と
骨のことと
その三つが
「自分がルルベで立つときにはこんな感じでなくては
いけない」
自分の思い込みみたいなものを捨てさせて
新しい感覚を掴めたと思う
あとはこの感覚を忘れないで
正しいのか確認する作業
本当に身体のことだけど
身体のことだけではないのだと
つくづく思う
少しずつでも変わっていける新鮮さが
楽しくてやめられない
#バレエ #トウシューズ #体幹トレーニング #KAYAメソッド
てっとり早く世界を変える方法
今年1月から
身体のケアについて学んでいる
名目は
資格取得のための
トレーニング
しかし本当は
自分のボディのための
プレゼントだと思っている
呼吸の仕方
重心の位置
自分の意識をどこに持っていけば
真っ直ぐに立てるか
人から見たら
ちょっと立ち方が変わっただけの
わずかなこと
だけど
自分にとっては
世界が大きく変わること
なぜなら
目の前の出来事を
観察している自分の「目」が
「意識」が
変わっているから
今までと
違うフィルターを通して
世界を見るから
自分に起きる出来事は
自分の思い込みが
作ってるんだよ
身体が変わることは
自分の思い込みが変わる
かなり
てっとり早い方法だと
私は思っている
春分の日が過ぎたら
あっという間に4月が
やって来た
この早さで時間が過ぎたら
気がついたら人生
終わってるかもしれない
だから今日
だから今
いいと思ったことを
選択する
それが
かなりてっとり早く
世界を変える方法だと
思っている
原点に戻った日
3月21日春分の日は
久しぶりに実家に帰った
いろんな思いがあったけど
確執だらけだった母は
私が訪問した事を喜び
1分前の発言をすっかり忘れながら
何とかもてなそうとしてくれる
小さいおばあちゃんに
なっていた
かつての
絶対的で巨大な怪物
言葉の暴力を重ね
私の自由を許さず
狭くて偏見に満ちた狭い箱に
押し込めようとした
パワーハラスメントの記憶は
すでに色褪せていたことを
心から理解したと思った
母に反発したからこそ
頑張ってきた事は
既に目的を失い
本当に自分がやりたい事だけを
やっていいのだと
自分に許可を出す時が来たのだと
認識した
母や別のもののせいにして
自分の気持ちに向き合う事を
後回しにしてきた事
見て見ぬ振りをして
軌道修正をしてこなかった事
急いで手をつけることを
選択しようと思う
それは今やっている事を
止めるのでなく
今の状況のまま
もっと無防備で
自分のことを許すだけなのだと思う
人は嘘をつく
人は嘘をつく
そうできている
誰かをつなぎとめるために
良い評価をもらうために
自分のプライドのために
だけど
本当は誰かのためではない
プライドのためではない
自分のために
自分を守るために
自分を正当化するために
自分のやりたい事をするために
嘘をつく
嘘はいけないと
教えたのは誰?
そして
それを頑なに守って
誰かに褒めてもらいたいと
思ってない?
大人になったあなたを褒めてくれる人なんかいない
いるとしたら、褒めてくれた人に
都合よかっただけだ
自分の本当の気持ちに嘘をつかない言葉を
全員が口にしたら
多分一瞬で
世界戦争が起こって
私たちは消えてしまう
それが分かっているから
人は嘘をつく
それでいいのだ
ただし
自分にだけは冷酷なまでに正直でいること
そこがスタートライン
本当の他人との関わりは
そこから始まる
長いつきあい
仕事ではなく
趣味とも言えず
ただ好きなだけで
ただ長く関わってきただけで
時々好きなのかどうかも
分からなくなる
何度も離れようとして
そのたびに
なぜか呼び戻される
私のダンスとの付き合い
自分の中で綱引き
私の中では
自分の好きなことして
生きていきたい
社会でソツなく生きていきたい
だから
クッソいまいましい
家族とか家庭に縛られたくない
そんなもの持ちたくないし
離れていたい
という想いと
心から安らげて
楽しいことを共有できるパートナー
自分を殻に包むことなく
心開くことが出来る仲間や友達と
深く深く繋がっていたい
それが真の幸せではないか
という想いが常に綱引きをしているんだと
最近ようやく分かってきたように思う
どちらも大切
だけどどちらかに決めないといけない
そんな風に思ってきた
もし
どちらも選択できるとしたら?
ひとつに絞る必要ってないんじゃない?
と考えてみた
去年まではできなかったけど
何かの環境が変わって
これからはできるかも知れない
可能性ってどこから開くかは
分からない
「これだけ」
「集中」って
その瞬間にしかできないこと
次の瞬間に何を選択するか
同じ選択ばかりしていたら
きっと変われない
自分を作っている
身体の細胞の一つ一つは
瞬間瞬間にどんどん変化し続けているから
同じ選択をし続けることは
ないはずだ
自分の身体(形あるもの)と
自分の思考、感情も含めて意識(形ないもの)の
2つの方向性が一致することが
とても大切な気がする
たとえ一致しなくても
身体はおおむね
私の意志のとおり動いてくれている
今日も身体に感謝