目力を鍛える
お世話になっているカヤスタジオの
スタジオパフォーマンスで
バリアージの作品を
踊らせていただいた
作品名は「ソバエ」
日照雨と書く
狐の嫁入りのこと
以前
パリアージの舞台で
見たときの衣装の印象と
自分が衣装を着けて踊った感じが
あまりにも違って
心許なかった
もちろん自信がないことから
きていた
バリアージの作品を
前回のスタジオパフォーマンスで
踊っててるのにもかかわらず
半年前のことなのに
何年も前の出来事のように
本当に思い出せない
ソバエのオープニングは
片足バランスで
出演者1人ずつ全員が整列するまで
舞台を進んでいく
狭いスタジオで
出演者3人でも
それほど広くないのに
とても長く感じる
不幸にも
私が先頭で
移動距離が一番長い
ゲネ中
不安と自信のないなか
真正面で作品を見ていた
カヤ先生と目が合った
というか
先生が私を見たので
カヤ先生の顔を
真正面から見ることになった
あまりの衝撃で
目が点になった
私から見ると
かや先生はまるで隈取りをした
歌舞伎役者のようだった
※これはイメージで
カヤ先生ではありません
私の目には
目の前のスクリーン一杯に
こんな感じの
カヤ先生がら見えたのだ
実際は
先生は本番用に
いつもより少しだけ
強めのメイクをしていて
舞台衣装(黒のトップと赤のスカート)
だった
そのあと一言
「目ヂカラだよ!」
たった一瞥の
カヤ先生の目ヂカラに
息がとまりそうなほど
くらくらした
その言葉で
私には目力という名前の
アピールというか
周りに伝えていく力が
弱いことは分かった
だけどどうしたら
それが出来るのかは
かいもく分からず
ただ、そこで認識したのは
自分には自分より外向きに
放出するエネジーというか
勢いというか
意識のようなものが
とても少ないことだった
そして
ぼんやり感じたことは
目力と呼ばれたそれば
決して力んで
生まれるものではなく
ただシンプルに
在り方なのかも
しれないということだった
あの日から私は
とても深い海の底にいて
海面を見上げて
どうやったら
水の外の世界へ
上がっていけるのか
ぼうぜんとしているような
感覚の中にいる
再会
11月になってすっかり空気が変わった
秋分の日から誕生日前後があまりにもせわしくて
どう自分と接して良いのか試行錯誤な1か月だった
自分と接するということは
他人にどのように対応するか
その反応でしか自覚できないのだと
あらためて思った
昨日は名古屋にいる友達が誘ってくれて
久しぶりに会った
出会いは6年前
また再会してお互いの変化を
確認して思う
お互い変化はしているが
私も彼女も本質は変わらないのだと
確認し合った
繋がりが続くことを
ご縁という
きっと
良いも悪いもなく
ただ繋がりを
選択しているのだと思う
こうやって
会うことができるのも感謝しかない
今、健康で
元気でいると
今日が当たり前に続くように思う
いつでも会えるようで
実は会えなくなる日が明日来るかも
しれないのだ
写真は
彼女がプレゼントしてくれた
白いバラ
死んでお空の星になる
昔
亡くなった人のことを
子供に向かって
「お星さまになったんだよ」
と説明する場面を
ドラマで観たことがある
私はてっきり
子供だましのセリフだと
思っていた
先日
母が亡くなった
容体が急変したので
急いで駆けつけはしたが
最後の呼吸を看取ることは
できなかった
しかし
病院に急ぐタクシーの中で
ふと呼ばれた気がして
空を見上げると
きれいな雲が泳いでいる
空いっぱいに
母の存在が広がっているのを
感じたのだ
ああ
逝ったのだな・・・
そのとき
母が肉体から離れたことを
知った
なぜか別の場所から駆け付けた
弟と同時に病室に入ることになった
母の采配だったのかも知れない
「あなた達のことを、平等に扱っていますよ」
そんな感じがした。
私の独りよがりな
意味づけだけど
なぜなら私は
母がずっと私より
末っ子の弟の事を
可愛がっているように
思ってきたからだ
亡くなって
20分くらいしてから
私たちは到着したのだが
看護師さんから伺うと
母は
静かに、穏やかに
逝ったそうだ
さんざん家族を振り回した挙句
最後のあいさつもすることなく
自分のタイミングで
機嫌よく行ってしまうなんて
母らしいと思った
なぜか今は
感謝しかない気がする
昔はこの言葉が気持ち悪くて
仕方がなかったが
今の気持ちを表現すると
それしか思い当たらない
母は肉体から去ってしまったが
その存在は私の中にある
空いっぱいに広がった母の存在
空は私の意識の反映
そして
母はそこにいる
そう
あの話は本当だった
母は空の星になったのだ
秋分の日 今日までの振り返り
今日は秋分の日
一日の昼と夜の
時間が同じ日
連休だったにもかかわらず
体調不良のため
だらだらと過ごした
そんな中で
この1年少しの自分の身体の
変化について
振り返ってみた
気付きというものは
意識=思考ばかりだと思っていたが
身体の感覚から気づくことも
多いのだと
この1年ほどで認識した
私の場合は
昨年8月からトレーニングスタジオに
不定期にいくようになり
身体(ボディ)からのアプローチとなった
かつては
身体ではなく思考を優先に
していた
が
結局頭でっかちになってしまい
現実と、知識・思考とのギャップが
とても苦しくなってしまった
いろいろ
どん詰まりになり
本当に生きるのに
うんざりで
自分が嫌いになったとき
やっぱり好きなことは
13歳で辞める事になり
就職してから
細々と続けてきた
バレエやダンスだったと
自分を振り返ったのが
トレーニングスタジオに
通うことにつながった
それまでには
色んな人との出会いがあって
プロでダンサーをしていないまでも
本当に「もの」にならなくても
才能やセンスがなくても
これほど
エネルギーを
身体のことに注ぐことを
自分に許すに至ったと思う
今のところ
身体が変わったと
自信をもって言えるのは
自分の足裏全体で
自分の体重を感じることが
できるようになったこと
骨盤からまっすぐに
すとんと足裏まで
何かが流れている感覚が
分かるようになったこと
現在はその状態にはなった
それが自分の
何にどう影響するのかは
これから結果が出て
ゆくのだと思う
笑える思い込み
今まで自分ではトレーニングで
チャクラを意識するなんて
思いもよらなかった
チャクラ、エネルギー、気
そんなものは希薄で
自分で運動して心拍を上げ
汗をかく事と
全く無関係なものだと
勝手に思い込んでいた
「静かに座して感じるもの」
そんなイメージを作り上げていた
穏やかに蓮華座で座り
瞑想しているのカッコいいと
思っていたのだと思う
自分の思い込みが
間違っていたというよりも
ただ自分の体験をするチャンスを
遠ざけていたことが
とても残念で
その間に正しいと思って
足掻いていた日々が
ちょっと笑える
なぜなら
自分で勝手に決め付けて
意識することさえしない
まるで
食べず嫌いで
本当は美味しいと感じる
料理を味わわないで
生きてきたみたいな
感じだからと思うからだ
ちょっと古いが
「巨人の星」のテーマソングの
「♪~ 思いこんだ~ら 」
を思い出した
(画像は整地ローラー)