無敵になる方法
これまで
嫌われることが
悪いと思っていた
この人は自分を嫌っている
と感じた人には
近づかないように
していた
思いやりとして
マナーとして
でもあるときから
気にしなくなった
ずっと昔
子供のころは
嫌われることは
世界の終わりみたいだった
いじわるをされる
無視される
口をきいてもらえない
私一人だけ仲間外れ
そんな体験を
いくつもした
だけどもっともっと昔
赤ちゃんだったころは
嫌われることは
本当に世界の終わりだった
時代があった
覚えてはいないけど
自分のすべてが
大人に握られていた時代
今はもう
他人から嫌われないことを
基準に生きる時代は終わった
自分の好き嫌いと
他人の好き嫌いとは
別だと分かったから
でもときどき
その感覚がわからなくなることがある
そんな
自分を見失いそうになる時は
自分の胸に手を置いて
ゆっくり3回呼吸する
そうしたらちゃんと
自分に繋がれる
自分のことを
とても好きになれる
#呼吸 #自分に繋がる
今すぐに幸せを感じる方法
自分の夢を叶えることが
人生の目的だと思っていた時期がある
その時は
「好きないことしたい」が
夢だった
好きなことができれば
幸せになれると思っていた
好きなことができるようになって
願望実現したら
しばらくは
とても幸せな気持ちだったけれど
本当にその状態を
継続することが
自分がやりたかったことなのか
疑問に思うようになった
認定資格のように
誰かが承認してくれるわけではなく
もとからなかった自信を
さらに失うような感覚になって
本当に自分が好きなことが
分からなくなった
子供の時のように
誰かが採点してくれはしない
時々
嫌味を言う人はいる
家族も
いい顔をしない
誰かに許可をもらわないと
認められたかどうか不安だった
今から思えば
自分自身の本心からやりたいと
思ったというよりは
承認欲求だったのだと分かる
今は
夢を叶えることがすべてではない
自信をもってそう言える
夢をかなえてしまった結果ではなくて
そうなるためのプロセスの
ひとつひとつが
自分を自分で認めることだから
だから
ものすごく早く幸せを感じることができるのだ
#夢をかなえる #人生の目的
ヤバいレッスン
isasのパンレッスンに行ってきた
初めてエッグベネディクトを
食べたのは
おしゃれな人に
おしゃれなカフェに
連れて行って
もらった時だった
「こんなに美味しいものがあるなんて」
とその時思った
今回のLisasは
〇エッグベネディクト
〇フライドポテト
〇クラムチャウダー
〇シーザーサラダ
同じ食材がかぶってるのに
4つのうち
3つのメニューが成り立ってる
家族が少ないから
食材が無駄になり
コスパが悪い
日常に自作料理が成立してない
私にはありがたいレッスン
しかも
私の好きなものばかり
しっかり作る
きちんと良いバターを使う
だから
それなりの高カロリー
グルテンたっぷり
だけと美味しい
そして何より
探求好きなりささんの
熱いトークがたまらない
かなり
ヤバい
月に1回の私の楽しみ
怖いときの特効薬
昨日
3月から小中学校が
休校になる流れになって
一気に状況が変わったように思う
朝ドラックストアの前に
長蛇の列
ネットで調べたら
「マスク難民」
という言葉を知った
調べてみたら
感染予防に効果はなく
感染防止には有効
感染していない人が
かからないためではなく
自分の感染が広がるのを
防止するためのマスク
ただ検査をしていなければ
感染していても
分からないのが現実・・・
ウイルスに感染するのに
怖さがないわけではないが
ウイルスに恐怖を感じて
不安に駆られて
集団心理で行動する
人の流れに
不安を感じる
結局それに負けると
自分もその渦の中に
入ってしまう
不安を感じたら
いったん立ち止まって
深い呼吸をすること
不安や恐怖に
巻き込まれないために
#呼吸 #ウイルスに負けない #流されない意識
変化の乗り切り方
結局全国の
小中学校の休校が
要請された
3月いっぱい
学校は休校のもよう
学校がお休みになって
会社は休みには
ならない
お子さんのいる家庭は
本当に大変だと思う
一方
マスクが不足して
ネットで
1枚500円になっていたり
栄養ドリンクと
抱き合わせで高く販売する
ドラッグストアが
出てきたり
こういう時に
持っている価値観が
あぶりだされるのを
痛感する
正しいか
間違っているかという
判断基準は
実は役に立たなくて
自分がどうあるべきかで
決めるしかないと思う
人から見て
どうかを考えていたら
苦しいだろうな
最近
考えをまとめるとき
深い呼吸を3回
するようにしている
びっくりするような
名案を思いつくことはないが
少なくとも
自分の決断を
覚悟することくらいは
出来るようになった
#呼吸 #環境が変化する
エチケットな気持ち
世間はコロナウイルスで
持ちきり
手ピカジェルも
マスクも売り切れ続出のようだ
「咳エチケット」
という言葉も
よく見るようになった
エチケット
という言い方はネットで確認すると
「相手を不快にさせない」というい意味をもつらしい
社会のルールという意味を持つマナーではなく
エチケットなのにすこし違和感があり
私なりに考えてみた
「咳エチケット」という言葉は
感染する可能性を排除するというよりは
感染させる可能性をイメージさせない配慮であり
あくまでも自分が加害者になることを
回避しているように感じる
自分が感染したら
感染源になること=人に迷惑をかけるとしたら
本当に他人に迷惑をかけることを
良しとしない社会なのだと思う
もし感染力のつよいウイルスが流行したら
感染する人の人数が増え
多数派=感染者になる
そうなったら
この感覚はどう変わるのだろう?
(この場合、感染しても死なない前提)
感染者が大多数になり
感染していない人が少数派になったら
それほど自分が感染源になることに対する
罪悪感はなくなるのではないかと思う
数の論理
実は
自分が他人に迷惑をかけてはいけない
という考えの根本にあるのは
自分がされて嫌なことをしない
という思いやりの場合と
自分が多数派であり続けたい
という自己防衛の場合の
2種類があるのではないかと思う
後者の場合
自分が多数派の立場である限り
圧倒的に反対の立場から
批判されたり排除される力が
働くことはないと考えるのではないか
自分を守ろうとすることは
ある意味本能だ
それ自体が悪いわけではない
けれど自分がしている行為の基が
どちらなのか
意外に人は直観で気づいてしまう
それが私がエチケットという言葉で感じた
違和感なのだと思う
常識・非常識
今の私の価値観は
今まで生きてきた中で
正しいと教えられてきたことが
もとになっている
自分で体験して
正しいと教えられたことだけでなく
自分の周りの人が
正しいと言ったり
これはいけないことだと
言ったことを
積み上げた結果のことを
常識と言うのだと思う
常識はもともと自分の考えではない
他人の価値観を
鵜呑みにして
自分の価値観にしていること
いったん取り込んだら
はじめは人のものだったのに
自分のものにして
本当の自分の価値観が
分からなくなる
自分の価値観が分からなくなると
自分の価値観ではなくて
他人の価値観で判断するようになる
それって
自分ではない
どんな時でも
自分でいたい
他人の価値観を
うっかり自分のものに
してしまわないために
他人のものは
ほんのちょっぴり
違和感がある
それが
どんなに正しいものであっても
その
ほんのわずかの
違和感に気づくために
いつも
自分の感覚を
自分のセンサーを
オンにしていること
私は
手を胸において
少し深呼吸するようにしている
絶対正しい
正義の味方なんて
本当はいない
#呼吸 #自分と繋がる #自分のセンサーをオンにする