今の私にできること
1週間前
富山に出張だった
昨年母が亡くなってから
あっという間に
4か月が過ぎた
今思えば怒涛だった
怒涛で良かった
目の前にある仕事を
こなしていく必要があり
その間は
気持ちが落ち込まなくて
助かった
心から仕事があることに
感謝した
反面
今までは
経験することがなかった
急な出張のため
楽しみにしていた
ダンスの発表会を
キャンセルしたり
20年以上も
連絡をしていなかった
同期入社の友人と
ゆっくり話す機会を得たり
今まで
目をつぶって
息を止めて
駆け抜けるように
過ごしてきた
自分との戦いの日々を
思い返すことが
多くなった
私は何と
戦ってきたのだろう
いや
戦ってきたのではなく
逃げてきたのだ
何かに立ち向かうふりをして
本来の自分から
逃げていたんだと思う
今も忙しさを理由に
逃げ続けていること
自分がやろうとしていることに
すぐに言い訳をしようとする癖
好きだから
実は好きではないから
得意だから
本当は苦手だから
才能があるから
全くセンスがないから
そんな事とは
全く関係ないのだと
特に母がいなくなってから
強烈に
見せつけられている
私が母に
脅威を抱いていた頃の
母の年齢は
とっくに越えているのに
年齢ではなく
自分の中に
植え付けてしまった感覚は
本当に根強い
もしあの時に戻れて
今の私が選択して行動したら
今とは違う人生を
歩んでいたに違いない
だけど
今の私があの頃に戻れないし
あの頃の私に何か
してあげる事なんか
できない
何とか出来るのでは
今のこの自分だけ
親だったり
社会だったり
外からの
価値観が無かった頃の
本来の自分に還ってゆくのは
自分の意思の力しかない
変わるということ
人間は進化なんかしない
あるのは変異だけだ
今までと同じことの連続
発想の連続から
急に全く違ったことを
選択する
少しずつ変化するのではなく
連続性なんかなく
突然異なる選択をするのだ
ただ
他人から見る変化は
ゆっくり見えるだけだ
本人の
うちなる変化は
細胞の
ひとつ ひとつ
確実に変わる
ある一定数変化したら
一気に変わる
遺伝子が変異して
あるとき
全く今までと違う
子供が生まれてくるように
変わるということ
人間は進化なんかしない
あるのは変異だけだ
今までと同じことの連続
発想の連続から
急に全く違ったことを
選択する
少しずつ変化するのではなく
連続性なんかなく
突然異なる選択をするのだ
ただ
他人から見る変化は
ゆっくり見えるだけだ
本人の
うちなる変化は
細胞の
ひとつ ひとつ
確実に変わる
ある一定数変化したら
一気に変わる
遺伝子が変異して
あるとき
全く今までと違う
子供が生まれてくるように
『道』
冬至に
バリアージ15周年記念公演『道』の
千秋楽を観た
90分の物語になっていて
観終わったあと
心が暖まって
じんわりと涙がこみあげた
今まで凍っていたものが
解けていく感じだった
観客の1人である私にとって
今回の『道』は
昨年6月の宴から
始まっていた
あのときChieさんは
トリで「冬」を踊った
ラストで
枯れ落ちる老木の
周りの空間いっぱいに響く
ずしん、ずしんという音は
本当は聞こえてはいないのに
今でも耳の中に残っている
今回は季節が進んで
春で終わった
冬、木の葉は枯れ落ち
緑はなくなる
灰色の世界は
死のようで
恐ろしい
春は
新しい命が生まれ
芽吹く季節だから
素晴らしいという
私の価値観は
肩すかしをくらい
死は終わりではなく
次のプロセスに進むための
ひとつの通り道であり
それが
どんなプロセスであったとしても
留まらず
歩み続けることが
歓びであるということを
感じて
心が暖かくなった
二胡とチェロ
鼓と唄
歌と声
ダンスだけでなく、
能、芝居も
表現の手段として
使われていて
目から
耳から
全身の皮膚の細胞の
ひとつひとつから
作品を
受け取ることができた
8歳のMarikaの
まっすぐなまなざしは
物語の語るうえで
欠かせなくて
秀逸
舞台中央の樹のオブジェが
珊瑚のようで
天井からあたるライトの光が
海面から注がれる日の光のようで
まるで
海の底にいるような錯覚
とてもあたたかく
安心感があった
母の子宮の中にいて
どんなことがあっても
守られているような
安心感だった
それは
『道』の中のストーリーだけでなく
このステージそのものが
大いなるものに守られていたからかも
知れない
目力を鍛える
お世話になっているカヤスタジオの
スタジオパフォーマンスで
バリアージの作品を
踊らせていただいた
作品名は「ソバエ」
日照雨と書く
狐の嫁入りのこと
以前
パリアージの舞台で
見たときの衣装の印象と
自分が衣装を着けて踊った感じが
あまりにも違って
心許なかった
もちろん自信がないことから
きていた
バリアージの作品を
前回のスタジオパフォーマンスで
踊っててるのにもかかわらず
半年前のことなのに
何年も前の出来事のように
本当に思い出せない
ソバエのオープニングは
片足バランスで
出演者1人ずつ全員が整列するまで
舞台を進んでいく
狭いスタジオで
出演者3人でも
それほど広くないのに
とても長く感じる
不幸にも
私が先頭で
移動距離が一番長い
ゲネ中
不安と自信のないなか
真正面で作品を見ていた
カヤ先生と目が合った
というか
先生が私を見たので
カヤ先生の顔を
真正面から見ることになった
あまりの衝撃で
目が点になった
私から見ると
かや先生はまるで隈取りをした
歌舞伎役者のようだった
※これはイメージで
カヤ先生ではありません
私の目には
目の前のスクリーン一杯に
こんな感じの
カヤ先生がら見えたのだ
実際は
先生は本番用に
いつもより少しだけ
強めのメイクをしていて
舞台衣装(黒のトップと赤のスカート)
だった
そのあと一言
「目ヂカラだよ!」
たった一瞥の
カヤ先生の目ヂカラに
息がとまりそうなほど
くらくらした
その言葉で
私には目力という名前の
アピールというか
周りに伝えていく力が
弱いことは分かった
だけどどうしたら
それが出来るのかは
かいもく分からず
ただ、そこで認識したのは
自分には自分より外向きに
放出するエネジーというか
勢いというか
意識のようなものが
とても少ないことだった
そして
ぼんやり感じたことは
目力と呼ばれたそれば
決して力んで
生まれるものではなく
ただシンプルに
在り方なのかも
しれないということだった
あの日から私は
とても深い海の底にいて
海面を見上げて
どうやったら
水の外の世界へ
上がっていけるのか
ぼうぜんとしているような
感覚の中にいる
再会
11月になってすっかり空気が変わった
秋分の日から誕生日前後があまりにもせわしくて
どう自分と接して良いのか試行錯誤な1か月だった
自分と接するということは
他人にどのように対応するか
その反応でしか自覚できないのだと
あらためて思った
昨日は名古屋にいる友達が誘ってくれて
久しぶりに会った
出会いは6年前
また再会してお互いの変化を
確認して思う
お互い変化はしているが
私も彼女も本質は変わらないのだと
確認し合った
繋がりが続くことを
ご縁という
きっと
良いも悪いもなく
ただ繋がりを
選択しているのだと思う
こうやって
会うことができるのも感謝しかない
今、健康で
元気でいると
今日が当たり前に続くように思う
いつでも会えるようで
実は会えなくなる日が明日来るかも
しれないのだ
写真は
彼女がプレゼントしてくれた
白いバラ