終わりのはじまり

5月末に2020年から流行しているウイルス性の風邪に

罹患してしまった

 

日曜日の夜に38度以上発熱し

翌朝になっても下がらない

頭痛、背中の痛み、倦怠感、息苦しさなど

よく聞く症状と一致して

翌日に発熱外来のあるクリニックに

電車に乗って診察に行き

血液検査の結果と

会社のPCR検査結果陽性連絡で

罹患確定した

 

熱は3日で引いたが

喉の違和感、息苦しさ、倦怠感は2週間以上続き

職場復帰のためのPCR検査結果が陰性になった今も

喉の違和感と軽度の倦怠感は続いている

 

3月頃から睡眠障害が続き

生まれてはじめて

心療内科を訪れてからひと月ほど

経った頃だった

 

毎日の当たり前の生活が

当たり前にできない

 

覚えられない

頭が働かない

周りの状況に対応できない

 

かなり自分でもパニックになっていた矢先の罹患

 

在宅勤務が出来ればよかったのかもしれないが

現場メインの現在の職場では

それはあり得なかった

 

2年前には予想もできなかった事態で

かなり戸惑った

 

何かの歯車が狂って

すべてがかみ合わない感じが

ぬぐえなかった

 

自分で結論したのは

 

あまりにも健康だったから

自分の健康と

体力を過信した

 

そう考えた

 

10日ほどの在宅期間を経て

復帰して1週間通勤をして

これ以上の継続は無理と判断した

毎日の通勤は体力的に苦痛になった

 

 

退職の時期が悪いと周囲に負担をかけることは

経験上知っていたが

有給休暇の残量を確認して

年間周期の中途半端な時期に

現在の組織を離れることに決めた

 

計画的にできればよかったのかもしれない

 

でも

後悔はなかった

 

しばらく会社の携帯を持っていたこともあり

会社勤務の意識が抜けるのに時間がかかることが分かった

正式な休暇中にもかかわらず

平日の日中は表に出歩くのが後ろめたかった

なぜか毎日がとても苦しく感じた

 

そんな中で

ようやく少しずつ

部屋のものを処分しはじめた

 

組織に所属して勤めるために必要だったものを

手放していこうと思って

気が付いたことがある

 

そもそも

なぜ組織に所属しようと思ったのか

なぜ働きつづけてきたのか

 

確かに

生活のため

自分の好きなことをするため

社会と関わるひとつの形

 

そうだった

 

そして間違いなく

私にとって必要だった

 

その生活が終わりとなった今

 

じゃあこれから

どう生きていくのか

どう在るのか

 

初めて自由に選択できるようになった

 

予定は空白

 

自分は本来何のために生まれてきたのか

自分の人生でお世話になってきた人と社会に

何を還していくのか

自分で選ぶ

 

可能性はあるようで

実は選択肢は2つある

 

ひとつは

自分が今までの人生で思い描いたこと

今まで私が社会と思ってきたもの、人に

貢献する道

 

もうひとつは

今まで思い描きもしなかったかもしれないが

自分で気が付いていなかった

本当はやりたいと思っていたこと

社会の貢献になるかなんか分からない道

 

どちらを選ぶのか

好きにしてよいと言われると

足がすくむ

 

確かなのは

選択する自分の意識が

クリアであること

 

何か別のものが刷り込まれていたり

他人からの目線が基準になっているのは

違うことは分かる

 

現在のブログのタイトルも

今の自分に合っていないので

変更する必要があるだろう

 

ようやく私は

ここまで来たのだ

 

「従順」「素直」

 

いろんな意味でこの時期

この言葉はそれが誰であろうと

自分以外の誰を対象にしても

使ってはいけない

 

自分に向けて強く宣言する

感覚に身を任せる

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朝起きて直ぐは

半覚醒状態だから

日中はアクセスが難しい潜在意識に

簡単に働きかけられるらしい

 

このところ

起き抜けには

ただあぐらをかいて座り

呼吸に集中しながら

自分の周りの感謝を数えている

 

気持ち良い1日を過ごすために

とても大切な事だと思ってやっている

 

 

起き上がらない方が良いようなことを

聞いた事もあるが

起き上がらないと確実に

二度寝してしまうため

静かに起き上がるようにしている

 

はじめの2日間ほどは

胸がいっぱいになり

ひたすら涙が流れる経験をした

これは15分ほどで

勝手に終了した

 

口に入った涙は

味がなく、水のようだった

 

そのあと簡単な自己流ストレッチをして

オンラインのストレッチを

始めるようにしていた

 

今朝ははなぜか

感謝を数え始めたら胸がいっぱいになり

涙が溢れてきたと思ったら

勝手に背中がのけぞりはじめ

普段自分では動かさないところまで

動きはじめた

涙は止まらず気がつくと

嗚咽をあげながら

片腕で反対の足を持って引っ張ったり

丸くなって全身を揺らしたりしていた

 

動きはようやく静かになり

嗚咽も涙も自然に止まった

すっきりして目を開けると

30分ほど時間が経っていた

 

不思議なことに

嗚咽まであげて涙が流れたが

なんの感情も感じなかった

 

私は自分からは何もしていない

ただ自分の身体の

「動かしたい」

という感覚に

委ねただけだった

 

どうやら身体が

肉体的にも感情的にも

自動で調整をしてくれたのだと

思っている

 

身体はすごい

(私がすごいのではない)

 

多分、身体って

自動修復機能つきの

精密機器なのだと思う

 

本来備わっている機能を

メンテナンスするために

定期的に

保守して

校正して

大切に使いたいと思う

 

そのために

持っているセンサーを

鈍らせるようなことは

してはいけない

 

感覚神経、中枢神経を

麻痺させるようなものを摂取することは

もってのほかだと思う

 

 

考えるな、感じろ!

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ゴールデンウィークが明けて

毎日とても眠い

今までの不眠が嘘のようだ

 

身体の感覚も健康状態も

リセットされたのかも知れない

 

 

身体の変化の中で

いちばん変化したのは

背中だと思う

 

今まで板のように真っ直ぐだった

背骨の両側は

1年前に左右の違いが明確になった

プロセスを経て

全体に柔らかく

差が少し少なくなったように思う

 

多分可動域も広がった

 

私が驚いたのは

見た目の話だけではない

 

ようやく踵が床を押す

感覚を感じることが

出来るようになったこと

 

それはルルベ(つま先立ち)を

している時も継続している

 

足の裏の足底筋を使えている感覚とともに

本当に嬉しかった

 

 

自分の中の違和感は2種類あり

1.本来感じるはずがないのに感じる違和感

 (痛み、痺れなど)違和感

2.本来、繋がりや使っている疲労など

 感じるはずなのに感じない違和感

 (自分の中の感覚が行方不明になる感じ)

 

以前の私には2つのどちらもがあり

特に1の痛みはずっとストレスだった

 

昔は若くて体力もあり

力まかせでやってしまえたので

外反母趾になったり

慢性の腰痛に悩まされたりした

 

就職してからずっと

整体や良いと言われるものを受け

ようやく自分に合うと感じた

ロルフィングに出会ったのが10年前

 

思えば身体が変わるごとに

人生のイベントを迎えていたように思う

 

4年前に出会ったKayaメソッドで

2年後には

痛みがほとんどなくなり

日常生活はかなり穏やかになっていた

 

そして去年の4月から

毎日続けるようになって

10ヶ月くらいで激変したと思う

 

オンラインのバレエクラスでも

身体の繋がりが全く違う

 

言葉で上手く表現しにくいし

まだ感覚が慣れていないかも知れないが

何か上手く繋がると

オートマチックに四肢の重さを感じなくなり

身体がひとつになった感じがするのだ

 

 

これは昔少しだけ

軟式テニスをやった時に経験した

ボールがラケットの

スイートスポットに当たった時の

感覚を思い出す

 

力が要らず

ラケットと自分とボールが

一体になったような手応え

 

あの感じに似ているのだ

 

バレエとテニス

ジャンルも状況も全く違うが

本質は同じなのだと思う

 

今までは見た目の形に囚われて

身体を動かしても

手応えがなく

どうしてよいのか分からず

結局

自分が

「どうしたいのか?」

「どう生きたいのか?」

も分からなくなってしまった気さえする

 

私はようやく

スタート時点に立ったのかも知れない

 

何をスタートするのか

今まで積み上げたものを

どうしていくのか

 

頭で考えようとすると

やっぱり混乱する

 

ここは

「燃えよ!ドラゴン」で

有名な

「考えるな、感じろ!」

 

という言葉を胸に

進んでいこうと思う

感謝を数える

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最近は

朝 目が覚めたら

感謝の数を

数えるようにしている

 

感謝の意識は

宇宙で最も高い波動らしく

朝起きてすぐは

意識が目覚めきっていないから

潜在意識の扉が全開で

意識したことが

すんなり自分に入るらしい

 

良さそうなことは

出来るだけ取り入れて

少しでも穏やかに

毎日を過ごしたい

そう思って3日前から取り入れている

 

今朝は起き上がる前に

何となくストレッチが始まり

今までとは違う

変化の予感で

休みということもあり

呼吸とともに30分くらい

ひたすら自分の身体の感覚に従った

 

ストレッチで感じる感覚は

ただ固かったり

引っかかりがあったり

よれていたり

何か細い異物が挟まっていたり

さまざまで

眼には見えないものの

確かなもので

まるで音楽を聴いているように感じる

 

その感覚は一体

その場所がどうなったら

そのような

音質になるのか

旋律になるのか

ただ私に語りかけてくる

 

つい

ずっとそれを

聴いていたくなってしまう

 

ふと

私の背中が側わんじゃなかったら

こんな感覚は

味わう事はなく

身体にも

踊りにも

ここまで執着することはなく

ゼロから少しずつ音量を上げるように

感覚が蘇るのを

味わうこともなかっただろうと思った

 

気がついたら

自分が脊椎側わんであることを

ありがたいと思っているのに

気がついた

 

2年くらい前まで

心から嫌悪して

いちばんの劣等感だった

人一倍小柄なことも

同じように感じていた

 

理由は分からない

ただ自分の意識が変わっていて

感謝の数が

昨日から2つ増えた

 

私の足裏はどんどん自由になり

片足で立っても

背骨が上手く調整しようと

してくれているのを

少し感じるようになった

 

今までは

足が頑張っていた

 

立っているのは足を使うのに

それを調節しているのは

胴体部分の背中なんだと思って

身体って本当にすごいなと感心した

 

私の当たり前は

身体とともにどんどん変わる

昨日とは違う新鮮な感覚

 

変わっていけることも

それを感じられるのも

やっぱり感謝でしかない

 

ゴールデンウィーク

今日で終わり

明日からの仕事で

どれだけ当たり前が

変わっていくのだろう

 

ひとつひとつ

自分の内側からくる感覚を

受け止めていこうと思う

消えない違和感

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今年に入ってからより顕著になってきた

私の中の違和感から

挙げる声がどんどん大きくなる

 

視力がぐっと落ちた

今の眼鏡の度は多分許容度ぎりぎり

 

書類のチェックと

パソコン作業の増加

慢性的寝不足

そして

ストレス

 

原因は良く分かっている

 

気になって眼科に行った

母譲りの緑内障が気になったからだ

晩年緑内障白内障の両方で

常に眼科通いだった母

 

母と同じ眼科で見てもらった時

目の形、視神経が少し凹んでいるところまで

そっくりと言われ

高齢になって緑内障の罹患リスクがあるから

定期的に診断するにとアドバイスを受けていた

 

検査結果に問題はなく

現在の数値・所見では問題はないと

先生は明るく言った

 

私もほっとしてクリニックを後にした

 

 

だけど

 

 

帰り道でやはり

付きまとう違和感がぬぐえなくなった

 

見えにくいのは

視力が落ちたから

目の奥に違和感があるのは

疲れているから

 

そう自分に言い聞かせる

 

けれども

一枚透明の膜が

目の前を覆っているような感覚

 

今まで

鮮明に感じていた痛みの感覚が

麻痺するように

何かが鈍っているのを感じる

 

数値に問題がなくて

病名がなければ

それでいいの?

 

明確な説明や理由はない

 

思い切って

放っておいていいか

自分に聞いてみた

 

答えはNOだった

「生活を変える必要がありますね」

 

そんな感じだった

ただ

これ以上眼科に行かなくても

いいみたいだった

 

あらためて

健康に問題ないって

どういうことなんだろうと

疑問に思った

 

先生に診てもらって

病名がつき

薬が処方されれば

病人として認定される

 

そうでなければ

病気ではなく

健康で何も気にしなくて良い

 

その判断で

医師任せで

本当にいいの?と思う

 

ふと思い出したが

目と肝臓はとても関連が深く

私の身体はとても疲れていて

その影響が強いのかと思う

 

肝臓は沈黙の臓器

身体を労わって過ごそうと思う

色あせる日常

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オタクな私は

キャラクターが大好きで

キディランドも大好きだ

 

先日キディランドに久しぶりに寄った

いつもしっかりトラップに引っかかり

売り場で余計な買い物をしてしまう

長時間ウロウロの予定が

 

なぜか店内の空気が重くて

見る気にならず

そそくさと帰宅

 

なぜ空気が重いのか

自分に聞いてみた

 

「プロバガンダ」

 

そう言われた気がした

詳しく知らないので

ネットで調べた

 

「特定の思想・世論・意識・行動へ

誘導する意図を持った行為」

 

とあった

もうひとつピンとくるものはなかったが

今まで感じていた楽しさが

一気に色あせた気がした

 

そういえば

14年前もそんな体験をしたことを

思い出した

 

それまで楽しかったことが

色あせて焦りはじめたのは

結婚して5年くらいしてからだった

 

人生でやりたいこと

叶えたいことが次々に叶い

幸せなはずなのに

 

今までの目標が束縛に変わり

日常生活の一つ一つが

苦痛になっていった

 

あの時は

感じた違和感を

認めたくなかったから

ずっと自分の中の違和感を

見るのを避けていた

 

生活を壊したくなくて

5年くらい忍耐したが

結局はパートナーと離れることを

決意した

 

そんなことを思い出した

 

また今

自分の中で自分自身の時代が

変わろうとしているのを感じる

 

自分が好んでいた居場所が

変わっていく

 

最近の休日は地下街に行くことが減り

ゴールデンウイークは

毎日近くの河川敷に行き

青空を見上げながら周りの風景を

携帯で写真におさめるようになった

 

今度こそ

違和感をなかったことにせず

変化のタイミングとして

とらえようと思う

 

たくさん咲いたシロツメクサ

もう少ししたら花びらが落ちるだろう

あっという間に夏が来る

 

天才ってなに?

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最近目にした言葉で気になったのが

「天才」

 

思い浮かぶのは天才画家の

ピカソゴッホ

タイプの違う二人

 

キュービズムというジャンルで

原型を留めない独特の画風で

「よく分からない、けどすごい!」

と感じる人も多いピカソ

小学生の彼の才能に

画家だった父親が圧倒され

画家を辞めたというエピソードもある

20代の頃会社の帰りに立ち寄った

エッジングの原画展で

老彫刻家とモデルのシリーズに

心とききめいた事を覚えている

大好きな画家だ

自身の作品をインスパイアする

ミューズ(女神)を求め続けた天才画家

ピカソ自身は芸術活動に生きており

女性たち同士の関係にはあまり関心が

なかったように言われているが

彼の魅力はすざまじく

自らの意思で彼の元から離れたのは1人だけ

という彼の2人の妻、5人の恋人達の愛憎劇は

あまりに壮絶で映画にもなっている

 

本当は人の役に立ちたくて

あまりにも貧乏でに性格が頑固過ぎ

目指した牧師にはなれなかったゴッホ

画家の道に進んでも

画家のコミュニティーから孤立し

仲間を求めてもその性格故に友も去り

純度の悪いアルコールで健康を蝕んだ末

孤独な自死

なくなる前に自らの耳を切り落とした

自画像は有名

日本の浮世絵に影響をうけた

天才的な彼の画風が生前は

日の目を見ることはなく

唯一彼の才能を認めていた

実弟のテオに経済的に支えられていた

その作品は

死後画商によって高く売買された

「狂気の天才画家」

 

2人とも画家としての才能は素晴らしく

その才能をいかんなく発揮したように

言われ

果たしてその人生は幸せだったのか

周りの人たちを幸せにしたのか

私は疑問を感じ

画家志望でもないのに

自分には飛び抜けた才能がなくて

良かったと思っていた

 

天才、という言葉をあらためて見たとき

それを

「飛び抜けた才能を持つ特異な稀有の人で

その才能を活かして生きた人」

とするのか

文字通り

「天性の持っている才能を活かして生きた人」

とするのでは

印象が変わることに気がついた

 

才能は、飛び抜けていてもいなくても

その人が独自に持っているもの

それを活かして生きるのは

そんなに難しいことではなく

誰にでも出来るのかもしれない

 

少なくとも

その人しかない才能を

活かして生きるのは

それがどんなものであっても

誰とも比較出来ない

味わい深いものかもしれない

 

私にも才能はあるはずで

それを活かした人生を送れるとしたら

こんな幸せなことはないかも知れないと思うと

 

それがどんなものか

どんな役に立つのかを

知ってみたい気持ちになった

 

ゴールデンウィークも半ばをすぎ

初夏の日差しが眩しい